#37

2019.07.16

アートサイエンスな学び

担当ディレクター:久松 陽一

毎回、さまざまなジャンルで活躍する方々をゲストスピーカーに迎え、彼らの活動事例などから新たなビジネスにつながるアイデアの糸口を探るディレクターズトークセッション。

2019年7月16日、第37回は、
「アートサイエンスな学び」。
聞き手は、久松 陽一ディレクター。

「アートが世界の見え方を変え、サイエンスが世界の見え方を広げる」
アートは世の中に問いを投げかけ、それを通じて今まで考えてもみなかった新たな世界に気づかせてくれる。
サイエンスはそれを分析して論理的に説明し、新たな世界を明確化して見せてくれる。
これからの時代は、この多次元空間を自由に行き来する知性が必要とされています。

今回のゲストである塚田さんは、世界のアートサイエンスを伝えるメディア「Bound Baw」の編集長を務め、アート&サイエンスを開拓する編集者、キュレーターとして様々な領域で活動されています。
アートとサイエンスの役割、これからの時代に必要なアートサイエンス教育などについて、いろいろとお話を伺いたいと思います。

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塚田さんが編集長を務めるBound Baw(バウンド・バウ/愛称・バウバウ)は、世界各地で定義のつかない新たに始まるアートサイエンスの活動や、アーティスト、フェスティバル、研究機関、ミュージアムのキュレーターなどを取材している。
運営母体は2017年度からアートサイエンス学科ができた大阪芸術大学だ。

大学時代はマガジンハウスの『BRUTUS』編集部でアルバイトをしながら、カルチャー誌で、アート、デザイン、映画、音楽などのライター・編集を目指していたという塚田さん。
その後、就職をしたデザイン会社でグラフィックデザイン誌『+81』や、アートギャラリーの運営、海外からデザイナーを呼ぶカンファレンスなどを経験したことで、メディアという表現はひとつに収まらないと思ったという。

同じ頃、科学を社会に広く伝える「サイエンスコミュニケーション」と呼ばれる活動を始めていた友人から誘われて2010年に始動したのが「SYNAPSE(シナプス)」(http://synapse-academicgroove.com/)というプロジェクト。東京大学の広報用フリーマガジン制作からスタートし、科学者とクリエイターとのイベント、ワークショップなどを多数開催してきた。

「なじみのない人にとって、サイエンスは冷たく無機質なものという印象があるかもしれないけど、よく知っていくとそんなことはない。特に私にとって最初の出合いが脳科学だったこともあり、彼らの研究テーマを聞くと「人間とは何か、心とは何か」を真剣に考えている人たちだということがわかって。それは、文学部出身の私には魅力的すぎるテーマでした。

元々、自分がアートを見たり音楽を聴いたりして感じた、このとてつもない経験を他者にどう伝えればいいのか、それを伝える編集者やライターになりたくて、詩的な表現とか強いコピーライティングの技術を学ぼうと思っていたのですが、実は科学の中にもこんなに豊かな表現があるのかと思ったのが、私の初めての科学との接点でした」

人間って何なのか、世界って何なのかということを一生かけて考えていこうとする中で、その考えるための新たな視点やツールをサイエンスにもらった、と塚田さんは話す。

自動運転車が事故を起こしたら誰が責任を取るのか

塚田さんは、科学技術振興機構(JST)/社会技術研究開発センター(RISTEX)が発信する研究領域「人と情報のエコシステム(HITE)」の研究プロジェクトに採択され、広報やメディア発信、プラットフォーム作りにも貢献している。

その中扱われるトピックには、AIの技術開発と社会実装のあいだに起きる諸問題がある。

たとえば、自動運転車が事故を起こしたら誰が責任を取るのかという問題について、「その責任はユーザーにあります」とある自動車メーカーが一度提示したところ、大変な物議を醸し撤回せざるを得なくなった。このように、AIの技術は進んでも、規制、世論、ユーザー感情も含めて、まだ折り合いがついていない状況の中で、それをどう考えるかという議論がされている。

この問題について、以前、HITEの広報冊子用に行った鼎談(http://boundbaw.com/inter-scope/articles/17)は、法学者とギリシア哲学者と心理学者の3人で「責任とは何か」について議論するもの。ギリシア哲学を専門とする哲学者は「アリストテレスの時代における責任という概念がどこから始まったか」などといった議論から始まったそう。一方、同じ研究プロジェクトに参加するインド哲学者は「インドには責任という言葉を直接表す概念がない」と言う。

国や宗教によっても「責任」という考え方が全く違うため、自動運転一つにしても答えが出ない。
技術だけでは語れない、責任とは何か、徳とは何か、信頼とはどういうことか、について大真面目に議論がされている。

「AIが発達することによって生活や仕事に余裕が生まれて、人間は今よりもっとクリエイティブになる、という話題もよくありますが、その状況に到達するまでのプロセスにはいろんな摩擦があるはずなんです。今は多くの人が技術革新ありきで未来のことを語りすぎている気がして、自動運転があったらこうなる、ではなくて、人はどうなりたいかということから技術や社会を考えていくべきだと思うんです」

人が本当は何がほしいのか、どう生きたいかという議論と、次世代の通信技術5Gは異なるレイヤーの話だ。それでも5Gの時代、AIの時代が来るとして、そこで、どう折り合いをつけていくかを考えなくてはいけないときなのかもしれない。

また、そのための議論の素地として、異分野の人々が集まる場作りを進めている塚田さんだが、単純にアート、サイエンス、デザイン、エンジニアといった違った分野の専門家たちがただ闇雲に集まって名刺交換をしたところで触発が生まれるものではないと語る。
ただ業界を超えるだけではなく、未来をどうやって考えていくか、またその根幹にある好奇心や想像力が繋がれば、どんな分野でも繋がっていくのではないだろうか。

そのためにも、人の本来持つ想像力や好奇心、そしてそれぞれの知識がぐるぐると回っていく状況を作り出すのが大切なんじゃないか、と塚田さんは言う。

アートサイエンス的な作品紹介

「私はアートサイエンスというテーマでメディアをつくったり、昨年は同名の本を出したりもしましたが、そのジャンルが突然始まった新しい分野だとは思っていません。そもそもアートとサイエンスという異なるものがつながることに対して、ひとつの定義があるわけではなく、現在進行形でずっと変わりゆくものだと思っていて。それでも、アートサイエンス的とも呼べる示唆に富んだ作品は世界中に多々あります。今日はその中の一例をご紹介します」

ここで、塚田さんが注目している、新しいものを生み出そうとするアートサイエンス的な活動をしているアーティストをいくつか紹介する。

<ステラーク>
オーストラリア出身のアーティスト、ステラークは、いかに技術を使って従来の人間観や生命観をハックするかという作品を生み出している。たとえば、巨大なロボットアームに自身の体をくくりつけてぐるぐる振り回されたり、インプラントで実際に音をセンシングできるマイクを自身の腕の中に入れ込み、文字通り「第三の耳」を自分の腕に作るなどの実験的な試みを続けている。

<エイミー・カール>
エイミー・カールというバイオアーティストは、自分の肝細胞を取り出し、3Dプリンターで作った自分の手の骨格に自身の幹細胞を移植し、バイオリアクターという装置の中で培養するという作品を発表している。自分の細胞が装置の中で培養されているのを見せることで、どこまでが生命、どこまでが自分なのかということも解いているのかもしれない。

<三上晴子>
故 三上晴子は監視カメラ風の小型カメラデバイスを数十個使って空間全面に配置し、その監視カメラが入ってきた人を認知すると動いて、いっぺんに見る。そこで彼らが見た映像が鏡側に大写しになる、という作品を発表した。セキュリティ時代を風刺するというよりは、テクノロジーに自分の身体感覚が侵食されていくような感覚をそのままむき出しに表現している。

<長谷川 愛>
長谷川愛は、同性愛者の女性カップルの遺伝子情報から子供の顔をシミュレーションして家族写真を合成で作る「(不)可能な子供」という作品を発表した。
テレビのドキュメンタリー番組でこの作品の制作プロセスが放映されると、ツイッターで賛否両論が巻き起こったが、彼女はその様子すらも美術館の会場で展示したという。
アート作品を通して、今の技術で可能にできることを可視化することにより「あなたはどう思いますか?」と観る人それぞれに問いかけている。

<目(め)>
最後にサイエンス的ではないが、塚田さんが強く推すアートユニット目(め)の作品。水戸市で巨大なおじさんの顔の風船を空に浮かべた「おじさんの顔が空に飛んだ日」だ。
水戸芸術館の美術館外プロジェクトで、水戸市のおじさんの顔を集めて、だれが一番おじさんらしいか投票をし、そこで決まった顔を巨大なサイズでプリントし、空に打ち上げた。
この作品を見て泣きじゃくる子供もいれば、全く知らない人同士が橋の上で泣きながら抱き合ったという逸話もあるという。予想外のサプライズを引き起こすのもアートの役割だろう。

アート作品ですべきこととは、試験管の中で起きていることとは違い、目の前にこれがあったときにあなたはどう思うのか、という対話がそこから生まれ、人々が考えるきっかけとなるものを作り出すことなのかもしれない。

常に作り変えていくミュージアム

塚田さんが「初めて行ったとき楽しすぎて発狂しそうだった、どこよりも大好きな場所」と話すExploratorium(エクスプロラトリアム)はサンフランシスコにあるサイエンスミュージアムだ。

科学とアートと人間の知覚にまつわる広大なミュージアムで、理科の実験のような展示物が多数あり、自由に見て、さわって感じることができる。

塚田さんいわく、このミュージアムの魅力は以下があるという。

・全身で感じる=自分の感じたことが学びにつながる
・オープンな環境=子供の目線以上の壁を作らない
・作り続ける=200を超える展示作品はラボスタッフが常に作り続けている
・ルールは最低限=子供の自主性を尊重する
・カリキュラムを作りすぎない=一緒につくる、考える
・大人が率先して楽しんでしまう=大人の楽しさが子供に伝染する

カオティックな環境の中で子供たちが何かを見つけ、考え、大人は子供からの問いに一緒に考えてくれる。そういった環境で好奇心と想像力が引き出される場になっている。

エクスプロラトリアムでは、展示物がたとえ壊れても、どんどんと更新し続けている。その状況自体、ラボのスタッフがとても楽しそうにしているのがよくわかるそうだ。大人が楽しんでいないものは子供も楽しめない。「好き」にまみれた空間の熱は伝達する。

アートは問いを生み出す

「デザインは答えを出すもの、アートは問いをつくるとよく言われますが、私は先述した目(め)の講義で、「アートとは、人間の感受性を肯定するもの」という言葉と出合いました。感受性を肯定するってすごくいいなと思って」

日本ではアートが高尚なものだと思われがちだ。
確かにトレーニングをしたほうが見えてくるものもある。野放しで見ればよいというものでもない。
知識的なリテラシーと身体的なリテラシーの両方が備わってくると、アートをより楽しむことができるのではないだろうか、と塚田さんは話す。

「この作家がなぜ、どういう文脈でこの作品作ったかという知識ももちろん重要ですが、とはいえ、たとえば日本酒の純米酒と純米大吟醸のおいしさに答えはないじゃないですか。もちろん、知識があればより深く味わうことができる。日本では多くの人がアートにも正解や答えがあると思いすぎているんじゃないかなと。目の前の作品が好きだろうが嫌いだろうが、そのとき自分が感じたこと自体がもっと肯定されるべきで、そこから思考や新たな想像力が育まれていく。アートというのはそうした受け皿になるんじゃないかなと思うんですね。」

さらに言えば、アートは高尚なものでもなく、私は生きるのに不可欠なものだとだと思います。痛みや悲しみとか、人はどう生きて、どう死んでいくのか、今まで宗教などが担ってきた哲学や価値観が、このテクノロジーの時代に今後はどう受け取られていくのか。それらをアートとサイエンスの双方から考え続けていきたいと思っています」

この先、人は病で死ぬことがなくなり、科学技術で生産性が上がっていくにつれ、世界中の人の死亡原因は自殺が多くなっていくと言われている。メンタルヘルスは世界的な問題になり、医療の進歩よりもそこをどう考えるかということが課題になっていくだろうと塚田さんは言う。

戻るべきは、効率的か役に立つかということではない。

「人文科学や哲学なんてお金にならず実用的ではないと思われている。でもそれは、今の資本主義における価値市場においてそう思われているだけ。結果が数値化できないから評価が難しくて、数値化できることしか価値がないと思われている風潮を変えたいんです」

テクノロジーの発達によって、世界とは何か、人間とは何か、ということをもう一度改めて考えさせられる時代、アートを受け皿に、私たちは自分自身に問いをかけていく必要があるのかもしれない。

塚田有那さんの著書「ART SCIENCE IS. アートサイエンスが導く世界の変容」

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話し手
塚田 有那 氏
(編集者、キュレーター、Bound Baw 編集長)

聞き手
久松 陽一
(ITビジネスプラザ武蔵交流・創造推進事業運営委員会ディレクター、
株式会社Hotchkiss アートディレクター)

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